8月9日(木)、平和集会が体育館で行われました。

原爆慰霊の日に「平和集会」を行いました。

8月9日(木)、長崎は67回目の原爆慰霊の日を迎えました。本校でも午前10時30分から生徒会主催による「平和集会」を体育館で行いました。最初に、校長先生による講話がありました。

 

講話の中で校長先生は井上光晴さんの『明日 1945年8月8日長崎』を引用し、「原爆の被害にあわれた方々は日常の生活を送っていた。その日常の先に原爆という恐ろしい惨劇が待っていようとは誰も予想していなかった。日常が崩されることを想像してください。そして、この惨劇を忘れないように、風化させないことが大切である」と語った。また、「いじめ」問題にもふれられ、「いじめは別の形での戦争である。いじめを許してはいけない。困ったら一人で抱えこんではいけない。相談することが大切である。そして、みんなが真の平和になるように考えよう」と訴えました。

11時2分に黙とうをおこなったのち、原爆に関する本の朗読を行いました。司会進行は田中君兄弟。生徒会長の山口君のあいさつの後、さっそく宮崎君、村上君、永谷君、植木君、松岡君、松本君、浦川君の7名によって、林京子さんの「祭りの場」の朗読が行われました。白崎君を中心に文化情報部員が作成した映像とBGMも効果的でした。

林さんは昭和5年(1930年)に長崎市で生まれました。県立長崎高等女学校(現在の長崎県立東高等学校)三年の時、学徒動員されていた三菱兵器大橋工場(現在の長崎大学文教キャンパス)で被爆しました。その時の体験を記したのがこの「祭りの場」です。昭和50年(1975年)この作品で第73回芥川賞を受賞して以来、原爆を生きた人間たちの生のあかしを描き続けています。核兵器のこわさ、恐ろしさを改めて実感できた集会となりました。

その朗読の一部分を次に紹介します。

広場で、高等学校の学徒が円陣をつくって踊っていた。仲間が出陣するのだ。踊りは出陣学徒を戦場に送る送別の踊りである。その頃連日、学徒たちが出陣していった。コンクリートの殺伐な工場広場は彼等の祭りの場になっていた。( 中略 )

踊りの輪は白日の広場で無言劇のように続いている。ブルブルブルと道ノ尾方面からエンジンらしい音が近づいてくる。「飛行機じゃなか?」と山口が工長の顔をみた。工長は耳を空に向け、「爆音のごたる、見てみろ」と言った。ステンドグラスの窓から半身のり出して空を窺った。山口は「何もおらんですよ」と戻ってきた。「警報のでとらんけん敵機じゃなかとじゃなかですか」次長が回りくどく窺った。音が止んだ。ほんの瞬時だった。

突然急降下か急上昇か、大空をかきむしる爆音がした。「空襲!」女が叫んだ。物音を聞いたのはそれだけである。文字にすれば原爆投下の一瞬はたったこれだけで終わる。ピカもドンもない。秒速360メ?トルの爆風も知らない。気づいたら倒壊家屋の下にいた。

爆心地付近の被爆者は原爆炸裂音を殆ど聞いていない。急上昇の爆音は聞いている。原爆投下直後、逃げる体制をとるためB29「ボックスカー」は慌てて急上昇した。彼らは人並みに死にたくなかったらしい。エンジンを止め原爆を投下し、急上昇する――彼らはくり返しくり返し的確な練習を重ねたに違いない。「ボックスカー」の急上昇音から工場倒壊まで、空襲、の短い言葉をはさむ間しかない。その間に7万3,884人が即死した。ほぼ同数の7万4,909人が真夏の日照りの中に皮をはがれて放り出された。いなばの白兎と同じだ。

被爆直後あたりは真っ暗になった。眼を見ひらいているのに何も見えない。黒々した闇があるだけだ。眼をやられた、と私は思った。洋子も明子も眼をやられた、と瞬間思い、両手で眼をこすったと言う。閃光をまともに見た者は眼がつぶれた。原爆の火の球は直径70メートル、おおよそ1000坪の広さになる。閃光で眼が見えなかった人が開眼した噂もあるが、これは嘘だろう。それほど神がかり的驚異を閃光は私たちに残した。広場で出陣の踊りを踊っていた学徒らは即死、火傷の重傷者は1、2時間生きた。

爆圧でコンクリートに叩きつけられて腸が出た学徒がいた。若者だけにうめき声がすさまじかった。

逃げる途中声を聞いた友人は、今でも話すとき両手で耳をおおう。爆心地の屋外で即死した者は多くが爆圧による死亡、とある。

踊りの輪には大学生も混じり 40人はいた。

無言劇のようにもの悲しい学徒出陣の踊り――

最後にみた送別の踊りの輪は、送る者送られる者、みんな 死んだ。

当時の長崎原爆での被害状況

死者、7万3,884人

負傷者、7万4,909人

被害をうけた人、12万 820人

全焼した家、1万1,574戸

ぜんぶこわれた家、1,326戸

被害をうけた家、5,509戸

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